出来事 は行

富士川の戦い(ふじかわのたたかい)

治承4年(1180)源頼朝の軍と、追悼のため京都から下向した平維盛
らの軍が、富士川を挟んで行った合戦。平氏軍は水鳥の羽音を敵の来襲と誤認して敗走したという。

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源頼朝「富士川の戦い」

(平家越)

平治の乱(へいじのらん)

保元の乱後、後白河上皇の寵臣藤原通憲と結んだ平清盛を打倒しようとして、源義朝が通憲の対立者藤原信頼と結んで平治元年(1159)に挙兵した内乱。後白河上皇を幽閉し、通憲を殺害したが清盛に敗れ、義朝・信頼は殺された。源氏の勢力は衰退し、平氏政権が出現した。

保元の乱(ほうげんのらん)

平安末期の内乱
皇位継承問題をめぐり崇徳上皇と後白河天皇の対立が激化し,一方摂関家でも,藤原忠通・頼長兄弟が摂関の地位をめぐって対立していた。鳥羽法皇の死をきっかけとして1156(保元元)年,上皇方は頼長・源為義・源為朝・平忠正を,天皇方は忠通・源義朝・平清盛を用いて戦い,天皇方が勝った。上皇は讃岐に流され,頼長は戦死,為義・忠正は斬首された。この内乱で皇室・摂関家の内紛に武士が活躍し,武士の政界進出を促すことになった。

本能寺の変

天正 10 (1582) 年6月2日京都本能寺に宿泊中の織田信長が,家臣明智光秀の謀叛にあって襲撃され自刃した事件。信長は,中国征討中の家臣豊臣秀吉を援助するため出陣の途中、本能寺に滞留中であった。光秀も中国征伐の友軍として西下の途中、丹波亀山城から引返して本能寺を襲った。信長は少数の手勢で防戦したが対抗できず,火を放って自刃。信長の天下統一の目的は達成されず,秀吉による全国制覇の第1歩が始った。

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